昭和二十年八月十五日、私たちの祖国が敗戦という空前のきびしい現実に直面した日、おそらく大部分の同胞が、「神も仏もあるものか」と混乱し、なすところを知らなかった。けれど私はその日から、「敗戦は神意なり」と絶叫して混迷の夢から覚めるように促し続けた。これでいいんだ、これこそありがたいことなのだと。

私たちが身のほども知らずに思い上がっていたうぬぼれ、独善を、反省させられるまたとない機会を与えられたわけですから。

そして明けて、二十一年の元且、私は、『今日を喜べ』という言葉をもって皆さんに呼びかけたのでした。分に過ぎた大戦争による大消耗、そのために食うものもない、着るものもない、住まう家もありはしないという「ないないづくし」だったけれど、それでも私たちが聞かされていた敗戦国の惨状にくらべたら、有り難いことづくめだった。社会の秩序も整然と保たれていたし、敗戦国としたら、これでよいのかと思えるほどのことだった。文句を言えば限りがないし、また文句の言えた義理じゃない、ただ「今日を喜んで」暮らさなければ次の幸せは与えられぬ、不平を並べたら苦しさは増すばかりだから。

二十二年の元旦からは、『現在を活かして明るく起(た)て』と強調した。戦に敗れたという現実があまりにもきびしかったからか、不平を言う人も多かったし、戦争さえなかったらという、死児の齢(よわい)を数えるに等しい、かえらぬ愚痴をこぼす人も多かった、虚無的に、その日暮らしをする人も増えるばかりだった。

いかに敗戦したとはいえ、いつまでもそんな状態を続けていては敗戦からさらに亡国へと歩みを進めることにもなろうと考えて、乏しくとも今あるもの、苦しくともいま与えられている環境、それらを活かして、最大限に活用し、工夫を凝らし、無駄を省いて、新生日本の建設に、今こそ起ち上がらなければ永遠にその機を失するぞ、奪い起てと檄(げき)をとばした。

ついで、二十三年の元旦、『元気で、明るく、和やかに』とモットーをかかげた。私たちは、元気で働き、明るく暮らし、和やかに話し合いましょう、と平易を旨として修養の根本を日常生活に敷衍(ふえん)した。何でもないこのことが誤まることなく実行できたとしたら、修養の目的を大半果たしたと言って過言じゃないと思ったから。

明くる二十四年の年頭に際して、『あせるな、堅実につとめ切れ』と標榜(ひょうぼう)した。社会情勢はだんだんに落ちついてきて、お互いに一生懸命で新日本の建設に努力しているつもりでも、神ならぬ身の、ついそこにあせる気持ちがわいてくる。「早く昔のように、おいしいものをたくさんに。いい着物を。ひろびろと落ちついて住まわれる家を」という「早く」という考えがいちばんあぶない。

古来百里の道は九十九里をもって半ばとす、とか言われる通り、ことを急ぐのあまり失敗した例は余りにも多い。九十九里を半ばと心得て、牛の歩みのそれのように、ゆるやかではあっても、堅実に、一歩一歩忠実に築きあげてゆく地道な努力を切望した。

そして二十五年、『清く、正しく、扶(たす)け合え』と願って、敗戦後これまでの歩みのうちに、ある者は不自然なほどに富み、反面、敗戦の痛手が癒(い)えず不遇にあえぐ人とは、ようやくその差があざやかに目につくようになった。そして正直者はバカをみるという近視眼的な、あやまり切った考え方が大部分の人々の頭を支配するようになってしまった。

そしてまだ、この年になっても異国の丘から引き揚げることを許されない同胞も数多い。それらの事実をあやまることなく直視してほしいと念じ、修養の糧(かて)とするように願ったわけだった。

今年、昭和二十六年元旦、講和の年と言い続けられたそのとき、『感謝して今日もにこにこ働きましょう』と旗印を掲げた。とにもかくにも、講和が結ばれる見通しのつくところまで、私たちは新日本建設の歩みを続けたわけである。

いろいろな意味で、感謝して、今日もにこにこ働いてほしい、それが新日本建設の仕上げなのだから。

しかし考えてほしいのは、この「感謝」が実にたいへんな感謝であることだ。そしてそれを忘れないようにしてほしい。ただ、うれしくて、ありがたくてできる感謝なら、ことさらに言わなくてもだれでもする。

困ったなあ、苦しいなあ、やり切れないなあ、これでいったい何を感謝しろというのだろう、と思えるほどのことがらを、「感謝」というところまでもってゆくのでなくっちゃ、修養するな んて烏滸(おこ)の沙汰(さた)だ。

(昭和二十六年一月九日、道場における武田法得先生の講演より)