ものごとに「けじめをつける」ということは大切なことであり、修養する人のなおざりにできぬ問題である。

「けじめをつける」すべを知らぬばかりに起こされる悲劇がなかなかに多い。その中でよく聞かされるのが、嫁がせたわが娘への愛執に盲目になった親たちです。

「あなたはその娘さんをくれてやったのか、貸してあるのか、それとも手伝いにやってあるのか」と問い詰めるとどうやら納得できて、けじめがつくらしい。

嫁にやった以上、まさか貸したわけでもなし、手伝いにやったわけでもない。まさしくくれてしまって先方のものに違いないわけで、それこそ俗な言い方で、「焼いて食おうと煮て食おうと先様の心のまま」でなければならぬ。嫁にやった以上「わが娘」であるより先に、「婚家の人」でなければうそだ。そこに「けじめ」が要る。

二人の女の子に恵まれた夫婦がまたまた第三番目の女の子を授かった。そのとき出産後の「あとはら」がひどく痛んで七転八倒の苦しみをしたのでその原因をたずねられた。

「当たり前だ、男だ女だと文句を言っているから」と教え、女が生まれたことに対する不平を、強く簡単にたしなめておいたが、そのおかげで痛みは去ったものの、幾日か経ってからこの人は考えた。

「子供は天からの授かりものではあるが、やっぱり男の子がほしかった。こう考えることは天を冒涜(ぼうとく)するものであるには違いないかも知れぬ。しかし人間の感情として、女の子ばかりが二人生まれたあとに続いて、三人目がまた女の子ではだれだって落胆するはず、いかに天意だからといって、三人目でも四人目でも、女でも結構、男でも結構、ただ有り難いと思ってなんかいられるものか。

浮世離れのしたそんな考えになって悟り切ったような顔をして、男でもよし女でもまたよし、と澄ましていなくてはならぬ、というのじゃとてもやり切れぬ、そんなことはまっぴらごめんだ。しかしお産後の苦痛はあのように教えられたことによって確かに救われた。これは厳然たる事実ではあるのだが……」

というわけ、私はその人に説いて聞かせた。

「そんなことで迷う必要はさらにないじゃないか。生まれてしまった女の子を見てから、『ああ、この子が男だったらなあ』と考えて何になる。いかに考えたって女の子はしょせん女でしかあり得ない、男になるわけがないじゃないか。

生まれるそのときまでは男であれかし、多分男であろう、と願うことも期待することもいいだろう。しかし現実に女の子が生まれてしまったのを知ったら、そのとき自分の心に『けじめ』をつけて、はっきり腹を決めたらいいじゃないか。

いや決めねばならぬのだ。その子がひねくれてしまったらどうする、『私は要らない子』などと思わせたら、そんなかわいそうなことはなかろう。

決してむずかしいことを言っているわけではなし、人間離れのした抹香【まっこう】臭い悟りなんかを説くのでもない。いつものように当たり前のことを当たり前にするように教えたに過ぎない。要は自分の心に『けじめ』をつけるということなのだ」

こんな意味で「けじめ」の問題は私たちの日常生活にいくらでもころがっている。「けじめ」をつけて執着を断つ意味なのである。

いくつかの仕事が眼の前に待ち構えていて、もて余す思いをすることがある。そんなときにたくさんの仕事を横に並べて考えたのでは、一つの仕事をしながら、別の仕事に気をとられて、「ああ、あの仕事もしなくちゃならぬ、この仕事もやってしまわねば……」というわけでやりかけた仕事に打ち込めぬから満足にはゆかない。いたずらに気持ちばかりあせるだけだ。

これを縦に一列に並べて考えてごらん、こうすればいくつ仕事があっても差しあたり目の前に映るのはただ一つだ。その目の前の一つにすべてを打ち込んで片づけてしまう。次にまた一つ。いつまで行っても仕事は一つだ。その一つひとつの仕事にけじめがつくということになるじゃないか。前の仕事への執着やほかの仕事への迷いに悩まされることもない、仕事にけじめをつける秘けつだね。これならば仕事に追いまわされて進退の自由を失うような失敗は絶対にない、てきぱきと実に能率的におもしろく仕事ははかどる。

「けじめ」をつけるてだてを身につけることが、修養の一つの大きい目標だろう。

(武田法得先生ご遺稿集より)