家庭は夫婦の「安息所」でなければならない。それが男のわがままと女の強情によって無惨に破壊される場合が実に多いのがかなしい。
先日、子供が病気で困っていると、あるサラリーマンの旦那さんから訴えられたので、
「夫婦の和を欠くからだ。元来子供は夫婦の和合した時に授かったもの、それを忘れて和を欠けば子供が病むのは理の当然。あなたが家庭を、特に奥さんを理解しないでわがままがすぎるからだめなのです」と教えたところ、
「いや、別にわがままというわけではありませんが、ただ私は家庭で甘えたいのです、足腰を伸ばしたいのです、一日会社で働いて疲れて帰宅するものですから」という。
私は間髪をいれず言葉を強めて、
「いや、わがままだ。そのせめて家では足腰を伸ばして、というのが一方的だからだめ。だからあなたが奥さんを理解しないと私はいうのです。なるほど昔からよくいわれているように、男というものは一旦家を外に出ると七人の敵があるといわれて、ひと通りでない苦労の連続であることは事実でしょう。だからせめてわが家に帰った時は足腰を伸ばしたいというのは無理じゃない。確かに家庭におけるその慰めが明日への活動力を生み出すのですから、それはそれでよい。しかし夫たるものここで静かに考えなくてはならぬ大問題があるのを知らねばならぬ、あなたはそれを知らないでいるから、一方的だと私は責めるのだが。
ほかならぬ奥さんの立場、それをあなたは考えていますか。
奥さんは夫の留守中は、来客、育児、家計、炊事、掃除、洗濯はもちろんのこと、家をあずかるということはなかなかで、あなたのようにわがままな男には理解しきれぬほどの大役を引き受ける。それが完全に果たされてこそあなたのお勤めも満足にゆくというもので、あなたが会社で二万円の月給をいただくのなら、半分の一万円は奥さんの働きだと考えねばならぬ。会社があなたの職場なら、奥さんは家庭が神聖な、命がけの職場にほかならぬので、もちろんなみなみならぬ気骨も折れる。だから妻にしてみれば夫が勤め先から帰宅してくれた時はほんとうにやれやれで、そこではじめて妻もわが家を、足腰伸ばしてくつろぐところにできるわけなのです。
ここまで考えたら分かるでしょう、わが家で足腰を伸ばすのは、夫も妻も対等に五分と五分の立場にあることが。あなたのために『安息所』であることが必要ならば、全く同じ意味で奥さんに対しても『安息所』であらねばならぬのです。お互いがお互い同士をこの意味で深く理解し合って、家庭を、勤めを理解したとき、はじめてそこに、明るい、本当に完全な『安息所』としての家庭が夫婦の間に築かれるというものです。
そのことが分からないから、おれ一人が苦労して働いているのだという、あわれむべき亭主風を吹かせて、家に帰ればそれこそ縦のものを横にもせぬ始末で、女房の役目だとばかり、食事のしたくで忙しい思いをしようが、子供のことで手がまわらなかろうが一切お構いなし。ちょっとしたことでも『おい』と呼びかけて女房に用事をいいつける。都合によると出先での不愉快なことまでもわが家に持ち込んで奥さんに八つ当たりをする。それじゃ家庭は地獄だ。
家庭は『夫婦の安息所』だということが分かっていれば、帰宅してみて、乱雑ならば片づけたり、満足にできぬながらも手伝って、一時も早く奥さんを家庭の職場から解放し、ともに楽しむ『安息所』をこしらえることだ」と話したことだった。
真に敬愛し、理解し合う夫婦にとってわが家ほどに完全な「安息所」はあり得ない。これさえ完全にできれば一切の病気災難は解消する。人生の安心立命がはっきりと確立される。男は男だけではだめ、女も女だけではだめ、一男一女がよき夫婦として一つになり切って初めて安心立命というものが得られる。
面倒なことは何もいらぬ、それができたら人間としての真の生きがいが分かってくる。そこを極楽といい、それを成仏といいへそれに気づくことを悟りという。

(武田法得先生ご遺稿集より)