働くことと遊ぶこと、どっちが楽しいか。

ちょっと考えますと遊びが楽しく、働くことはつらいと思いがちですけれど、遊んだあとの後味は案外に空しく悲しいものです。逆に、額に汗して一所懸命一つの仕事を仕上げた、そのあとの気分はとても充実し、達成感を伴った満足が得られます。

このことから、遊ぶことが人間の本質ではなく、働くことこそ人間の本質ではないかと気づきます。

働いたその商売が繁盛する秘訣は夫婦和合、そして家庭円満にあると教えていただいています。これも人間の本質であり、宇宙の真理です。

商売繁盛は、サラリーマンの家庭にも当てはめることができます。家庭が円満なのは、夫婦の仲が良いからで、サラリーマンにしても、商売の経営者にしても、これが繁盛の第一条件だと教えていただいております。

私は二十三歳の時に学校を卒業し、ある会社に就職いたしました。当時、私は報恩会を知らず『人生とは何だ』『生きることとは何だ』『働くということは一体何だ』と一度も考えたことはありませんでした。

『将来この会社である程度の役職を得て、そこそこの地位につけたらいい。世間並みで、しかも、かなうなら中流以上のお給料がもらえたらいい』

そういう漠然たる思いを持っているだけで、将来に対する具体的な計画とか夢とかは、まったく持ちあわせていなかった。心に秘めた生きがいはなく、ただ毎日の仕事をこなす、そういうような生活をしていました。

生きることは、感謝の心を持つこと、おかげさまの心を持つこと。そういう意識はまったくなく、ただ自分の目の前に起こる現象が、あまりいいことでなければ無難に過ごし、楽しいことであればそれに調子を合わせてその場を楽しむ。

そういう私ですが、仕事は決して嫌いではなく、大変仕事熱心な働き者であった両親の影響を大きく受けていたからだ思っています。

私は二十九歳のときに家内と結婚いたしました。家内は報恩会の会員で、特に青年部時代には修養会などによく出席しておりましたが、結婚を機に会から遠ざかっていました。その後二人の男の子を授かり、私も無難に仕事は続けていたのですが、三十六、七歳の頃から仕事や家庭にいろいろと不平不満を持つようになりました。

まずは、お給料が少ないこと。

『この会社の安い給料では子供たちを将来大学に行かせることができない。ましてやマイホームの夢も到底かなえられない』という不満です。

また、両親が履物屋を営んでいましたが、私の家内に手伝わせても一切報酬を払わない。それに私は非常な不満を持ちました。少しぐらいお金を出してくれてもいい、口ではなかなか言えなかったから、腹の中でぶつぶつと怒っていました。

そういう不平不満が年々募り、ついに三十九歳の時に会社を辞め、自分で水産物卸しの小さな会社を作り、東京周辺の市場に魚を販売する仕事を始めました。

仕事は比較的順調に進み、売り上げや利益も三年程経ちますと、そこそこ伸びてきました。そうすると、私は余裕が出てきた資金でマンションを買って、それを運用して副収入を得ようと考え、実行いたしました。

車も高級車に買い替えたり、お客さんとの取引をさらに大きくしたいという気持ちから、お客さんと麻雀をしたり、お酒を飲んだり、仕事以外のお付き合いも頻繁にするようになり、毎晩遅くまで出歩いて、やがてそれがお付き合いなのか、自分の遊びなのか分からなくなるまで、連日連夜遅く家庭に帰るようになりました。

家内は両親のお店の仕事、そして、男の子二人にさらに三男も授かり、三人の子供の面倒をみながら、おじいちゃんやおばあちゃんの相手をするようなハードな主婦業を担っていました。

その頃になると、家内は大きな声で私に「家とお店を手伝って。仕入れに行くときはお父さんも一緒に行ってください」と強く頼むことが増えてきました。

商店街で売り出しとかお祭りだと、いろいろな催し物があります。その準備や後片付けの仕事もなかなかハードですが、それを家内が一人で全部やりきっていました。

ところが私は、自分の仕事がそこそこの売り上げと利益がありましたので、我が家は私のお給料でもっていると自惚れ、家内が苦労しているにもかかわらず、本当の大変さを思いやることがなくなっていました。

そういう生活が三年から四年近く続き、気がついてみますと、売り上げ、利益ともに半減。さらにローンで買った賃貸マンションの月々の返済が数ヵ月後には滞ってしまうという状態になり、そこでやっと会社の状態がとんでもなく悪いことに気がつきました。

家内と相談しまして、すぐにマンションと車を売却し、とりあえずお金に替えられるものは全て売却して、銀行からの借金は返済をいたしました。一応身軽にはなりましたが、気がついてみますと取引先からの信用がなくなり、毎日ほとんど電話もかからなくなって、私は焦りました。

しかし、もう焦っても取り返しのつく状態ではなく、その当時子供は高校一年、中学三年と幼稚園の年中で、今の自分の力ではとても食べさせることできない。これから三人の子供を育て上げるには、いったいいくらかかるだろうと不安ばかりが募り、夜も眠れないのです。

当時四十六歳でしたから、いまさらどこかの会社に雇ってもらうこともできず、バブルは完全に崩壊して、世の中が非常に厳しい状態になっておりました。

本当に自分はどうしていいか分からず、とんでもないことになった、とんでもないことをしてしまったという後悔の念ばかり抱くようになり、まったく自信をなくしていました。

家内の両親からは報恩会で一度お話を聴いてみないかと、何度も誘われましたが、私はほんとに世の中を甘く見て、しかも非常に自惚れきった見方をしていましたので、世の中は自分の力でなんとかなる、十分俺の力で生きていける。そう考えておりましたから、両親の勧めもずっと断っていました。

しかし、このときばかりは、もうこのまま社会に復帰できないのではないかと落ち込んでいましたので、そうだ、お父さんのところに行って、報恩会のお話を聴かせてもらおう、と思い立ちました。

入会をして、道場でご質問をさせていただきました。

「あなたは、親に対する感謝がない。そして奥さんに対する思いやりもない。そもそも、あらゆるものに対する感謝がない」。

私は先ほども申しましたように、感謝とか、おかげさまという感性をまったく持ち合わせてない人間でしたから、初めてそういうことをお教えいただきまして、すぐには理解できませんでした。

自分は親不孝などしていないと思っていた。親に対して暴言を吐いたり、取っ組み合いの喧嘩をしたりしてないし、家内に対しても暴力をふるったり、罵声を浴びせたりそういうことはしてない。自分はそんな悪い人間ではない、と思っておりました。

しかし、それから折に触れ、親に対する感謝やあらゆるものに対する感謝、家内に対する思いやりを考えてみました。

家内は私に対してとても細やかな神経を使い、なるべく私の意に沿うような態度や言葉が見える。それは結婚した当初からで、私はそれを当たり前と受け取っておりました。

私の兄弟、友人、親戚の女性を見ていると、どうも家内の方が優しいと、日に日に分かってまいりました。

両親にしましても、父は小学校を出ただけで東京に出され、裸一貫から私たちを育て、そしてお店を持って一国一城の主として一人前になりました。非常に寡黙で、決して自分の手柄話などはいたしません。いつも自分みたいな中途半端な人間はいないと、謙遜しておりましたけれども、父を冷静に見ると本当に大変な事業を成し遂げたのだと分かります。

また母は父に連れ添って、父さんの片腕としてやってきたと、尊敬の眼差しでみることができてまいりました。

それに引き換え、取引先や仕入先、お客さんに対する感謝も、また天地自然の恵み――魚の仕事をさせていただきながら魚に対する感謝も一度たりとも私は思ったことはございませんでした。まったく感謝を知らない自分であったと気付かせていただきました。

教えに就きましてから、その後来月はつぶれるだろう、再来月こそつぶれるだろうと思いながら、一年間仕事を続けておりましたら、結局その一年後には、プラスマイナスゼロになっていまして、家族五人が食べることができました。

『苦しい状態が続き、明日はつぶれる、来月はつぶれると思っていたものが、一年間続いたけれど、子供たちは学校や幼稚園にずっと通うことができた。有り難い、おかげさまだ……』とそのとき初めて思わせていただきました。

そしてその翌年、思いもよらぬいい取引先から、有り難い話がいろいろと続き、それまでの累積赤字がいっぺんに引っくり返り、大きな黒字をいただくことができました。

感謝がいかに大切か、そして感謝を知らないことがいかに人生を苦しくするか、つくづく教えていただきました。

(『報恩』平成22年12月号より)